fastapple's blog

時系列関係なく、情報を追記・分割・統合などします。ブログに記載の内容のうち、引用ではなく、私自身が記載している文章・コードなどについては、自由にご利用ください。

情報の伝搬には時間がかかるという話


ここに書いていいものかわからないが、以前職場の同僚と話をした際、その人の考える「職業観」に少し、戸惑ったことがある。戸惑ったというより、面食らったというかそんな感じだ。

その人はバリバリの?理系出身で、自分もまあ理系なのだが、その人からすると例えば考古学者のような職業はバカバカしいと考えていると言っていた。(当時の話なので、今どう考えているのかはしらない。)自分からすれば、当時も今も、考古学者に特にそのような感情を抱いてはいないので、なんだかいきなりそんなことを言われて、(自分としては反証を考えたかったが)雑談のレベルでしかなかったので、そんなことはせずそのままにしていた。

なぜ、考古学がバカバカしいと、その人が考えるかというと、過去を追いかけている、役にたたないからだという。なんだか、まっとうな指摘のようで(過去を追いかけちゃだめ、とか、耳障りのいい台詞ではある。)別に学問だから何したっていいだろうと自分は思ったが、思うところがあったので書いておく。

学問が役にたつ、たたない云々に関する指摘は、すでに多くの人がしていると思うので、ここでは省く。

自分が今回指摘したいのは、果たして過去を追いかけることになにか意味があるのかということだ。なにか、というとちょっと語弊があるかもしれない。どういった意味があるかということを指摘したい。

ここで、結論から書いてしまうと、人間は基本的には過去からしか情報を得ることができない。極端な話、人間が話して、それが相手に伝わるまではタイムラグがある。これがメールならさらにタイムラグがあるだろう。手紙なら、もっとだ。

考古学者が何万年も昔の事実を発見することも、本質的な違いは何もない。

話が少しそれるが、仏教では「今を生きる」ことを重視する。では過去のことは何も考えなくていいのか?そういうことではない。もう少しいうと、仏教では「時間は変化していくものであることを認識しなさい」と云っているわけである。そしてこれは、つまり、何事にも「タイムラグがある」ということとイコールなのだ。

もし、一切の物事がタイムラグなしで行われるのであれば、それは世界が「静止」しているということである。これは仏教の価値観ではないのだ。つまり仏教的価値観をもってしても、やはり過去は認識されなければ矛盾である。

さらにいうと、タイムラグがない世界、止まっている世界とは「死んでいる世界」なのだ。生きているということが、タイムラグがあるということとイコールである。

最近自分は、ある現象や、誰かが言った言葉が、言葉を聞いたその時ではなく、もっとあと、なんなら一年後、二年後、もっとその後に、ようやく分かるという体験を何度かした。その時に感じたのは、理解する情報の「質」というのは、(あくまでも大抵の場合だが)聞いてその場で理解する情報の「質」とは異なっているということだ。

だから自分は、考古学で得られる情報の「質」は「よい」ものだと思う。宇宙にもロマンがあると思うが、膨大な時間の経過「そのもの」が情報に「よさ」を与えると思っている。

温故知新ということだ。