fastapple's blog

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鏡2.0


さて、今、ユーザーイリュージョンという本を読み進めている。この本のレビューはいずれ書きたいと思っているが、この本は非常に多くの示唆を与えてくれる良書だ。

本の中で少し鏡の話がでてくる。というのも、鏡は自分の姿を映してくれこそするものの、そこに映し出されるのは、落ち着いている時の自分である。つまり「自分の姿をみようとしている自分」が写っているのであり、その点に関して、自分のごく一部の場面しか映っていない。

さて、未来における鏡を考えた時に、このままでいいのだろうか。いや、鏡を考えるというより、鏡のように「客観的にみた自分の姿を確認できる道具」を考えた時に、現在は、芸能人でもない限りは、客観的にみた自分の姿に近づくことのできる人は少ないのではないだろうか。

この点について、鏡のように「客観的に自分を見るための道具」は、現代において、進化が足りていない。

未来において、次のような道具の重要性が増してくるだろう。

第一に、自分がみた視点を何度も再現してくれるもの。最近はGoProと呼ばれる一人称視点のビデオや、Google Glassなどの一人称視点のデバイスが少しずつ話題に登るようになってきた。これはこれから先の第二段階へ進むための足がかりとなる。

第二段階として、そのような一人称視点のデバイスが、相手から見た自分をネットワークを通じて自分へ情報として提供してくれる機能をもてばよい。

つまり、例えば私がとある人(Aさんとする)に会ったとして、そのAさんのデバイスで私が顔認識されたとする。その場合に限り、私のデバイスに、「Aさんの視点から見た私」の情報も統合されてくる。このようにすれば、私は完全に、一人称視点でみた時の私と、他人の視点からみた私の2つの情報を統合して記録しておくことができる。そのようになればこれがまさに、鏡の進化系と呼べるだろう。タイトルのように○○2.0というのは、いわゆる少し古くなってしまった流行り言葉であるが、一人称視点デバイスがそのような進化をした場合、タイトルのように、鏡2.0の時代が来たと言えるのではないだろうか。

ユーザーイリュージョンでは、初期の人類は、そもそも潜在意識(制御不能な意識)と意識(認識する意識)のうち、認識する意識を持たなかったのではないかというような話が登場する。例えば子供は、主観的な視点を先に獲得し、その後、客観的な視点を獲得することが知られている。客観的な視点というのは、主観的な視点よりもそういった意味で獲得が難しい。あろうことか自分の客観的な情報は、自分よりも他人のほうがよく知っている。なぜなら、自分は自分の顔を四六時中見ているわけではないし、自分の声も、他人が聴く声よりも低い声で聞こえている。(なぜなら骨導音を聞いているから)そのようなハンディキャップを背負いながらも、人はなんとか客観的な視点というのを概念として獲得することができる。それでは、鏡2.0のような媒体が現れ、自分を客観的にみることが物理的にも難しくなくなった場合に、人はどのように進化していくのだろう。かつて、古代人が再帰的な自己(自己に言及できる自己)を獲得したとすれば、それと同様に、新たな自己や概念を獲得するものが現れるのかもしれない。あるいはもしかすると、主観と客観に物理的にアクセス可能になった人類は、その区別をする必要がなくなり、再度、意識を失うのかもしれない。