【書評】ユーザーイリュージョン ―意識という幻想 を読んで (マインドマップ付き)
今回も、結構前に読んだ本の書評である。
トール ノーレットランダーシュ(著)『ユーザーイリュージョン』 だ。
この本、新書で566ページあり、本を読んでいる時も結構ずっしりとくる重さだ。
この本の内容で特に面白いところは、ざっくりといえば、意識は傍観者ではないか?という疑問を提示し、説得力のある論証を重ねていくところである。
わたしはこの本を読む前では、意識がなにもできないという主張に対しては懐疑的だった。それは今も変わらない。この本の中で、意識は、無意識の行動をストップするストッパーとしての役割を果たしているのではないか?という論も提示される。現時点では、わたしはこれが最も有力ではないかと考えている。
この本で盛り上がる部分は、なんといっても、意識が0.5秒遅れており、さらにそのずれを修正するために、人間に錯覚をわざと与えている。という部分だ。
つまり、無意識が情報を処理し、意識に渡すのに0.5秒程度かかっているが、この遅れがそのままだと、意識はまるで自分の体が自分の意識するより前に動いているように感じてしまい(※但し、実際はこれが紛れもない事実であるということなのだが)、不自由となるので、0.5秒前に起きたことを、まるで今起きたことであるかのように、意識を錯覚させているのである。
この0.5秒理論は、結構センセーショナルで、バキという漫画でも(唐突に)取り上げられているようである。(少し意味が異なってしまっているようだが。)
この理論を図示すると、以下のようになる。
仏教用語との対応付けについての補足は、完全にわたしの理解で、本を読んでも書いていない。仏教用語というのは、(瞑想をやっていた関係からか)非常に人間の認識について詳しく考えられていると思う。ここでとりあげたパパンチャなどについては、下記URLに詳しい。
パパンチャについて
仏教講義 23.刺激論 (5)パパンチャのからくり」
ヴィタッカについて
パーリ語仏教用語集『PAKINNAKA CETASIKA(パキンナカ チェータシカ):雑心所』
ところで、無意識がそんなに勝手に動いているのなら、意識の役割とは一体なんだろうか?わたしは、大きな役割がひとつあると思う。それは、意識は無意識の決断に対して、待ったをかける役割を果たしているのではないかということだ。
逆に云えば、無意識の決断に待ったをかけないのなら、意識の機能をまるで使っていないことになる。実際の生活において、意識を働かせないで生活することがどれだけ危険かということがよくわかる。しかも怖いのは、ただぼんやり無意識で生活することもそれなりにできてしまうことだ。
仏教は、瞑想などで意識の働きを強めることをするという点で、実践的である。思えばこうして文章を書くことは(ほとんど無意識的にできてしまうのであるが、それでも)推敲などで意識の能力を使う場面があるので、脳の訓練によいとは思う。
マインドマップには、これを意識の禁止権と表現した。
2016/7/12追記:
先日、Wiredで興味深い記事を見つけた。自由意思は存在するという実験結果である。リベットの結果から時間が経ったが、この結果によると、このブログに書いているように、意識には確かに禁止権があるようだ。(ただ、その禁止権を発動できる時間は非常に限られている)
wired.jp
少し話は変わるが、いわゆるヴィパッサナー瞑想(最近はよく、マインドフルネスという名称で宗教色を消してシリコンバレーなどで流行しているようだ)を行うことで、自分の無意識化の決定に対して敏感になることができるので、このような禁止権を行使する訓練になると思われる(もっと簡単にいうと、意思が強くなると考えられる)。あくまで私の考えだが。
この本のトピックは、これだけにとどまらない。
ジョハリの窓を知っているだろうか?直接本の中で「ジョハリの窓」という言葉を用いて言及されているわけではないが、ジョハリの窓は、自分のことについて、4つの領域を用いて説明した理論である。
大抵の場合、自分は自分しか見えない自分という部分を過大評価しているものだが、実際には、他人しかしらない自分という領域はかなり大きい。よく考えると怖い話だ。自分はうまく隠していると思っても、バレバレなウソをついているかもしれない。クセなどですぐに見抜かれているかもしれない。なくて七癖というのはよく言ったものだと思う。
これに関して、鏡2.0というタイトルで関連する記事を書いたので、詳細はそちらを参照してほしい。
fastapple.hatenablog.com
本の中では、ジュリアンジェインズの『神々の沈黙』の、バイキャメラルマインドに言及している。バイキャメラルマインドというのは、ざっくりいうと、大昔人間には意識がなかったというものすごい主張である。そこから、神々の意識によって行動していたというすごい主張が展開されるのだが、真偽はともかく、人間の意識は後発的な機能であるというのは、ほぼ間違いないことだろう。
さて、本の主張のなかでは、いくつか怪しい箇所もある。例えば、相貌失認に対する考えだが、現在では人間の顔認識には脳のなかでそれ専用の回路があることが示唆されている。こういった例外的・後天的な機能もすべてひとつの理論にまとめようとすると間違えるという気がするが、それを差し置いても良書には違いない。
ランダムネスやエントロピーに対する言及も興味深い。ただ、本の中では、ランダムは一様であることと同義であるように書かれているが、ランダムの形態としては、一様である場合と、スケールフリーである場合がある。つまり正規分布する場合とべき乗分布する場合がある。本の中では、もっぱら一様になる場合をランダムと呼んでいるが、べき分布の場合もランダムと呼べると思うので、定義の問題かと思った。
興味深いのは、コロモゴロフ複雑性は単に一様さという意味での指標にしかなっていないという点だ。それに代わるものとして、ベネット、ランダウワーの論理深度が紹介されている。論理深度は、導出に費やした計算資源を、そのまま複雑さの指標として用いるという点が優れている。
と、まあ色々なところに言及して、議論を展開していくという点はすごく面白い。わたしは、サブリミナルや暗示というものがあるかどうかわからないと思っていたが、本書を読んで、ほぼ存在すると見て間違いないだろうという気持ちになった。
あと、これの原著はデンマークで1991年に出版されているようだが、2016年現在からみても、内容は非常に先進的だなあと思った。こういう本は古くならないのだろう。