fastapple's blog

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ZOZOタウンの前澤友作と女優の剛力彩芽のカップルは、日本初のセレブだと思う。


まず、存命の芸能人に対して、敬称略の記事を書くことの失礼を詫びたいが、例えばアインシュタインアインシュタインさんとか書いていたらなんだか変な文脈になると思うのでこのようにしている。

これまで、日本にセレブと呼べる人がどれだけいたのか考えた時に、ぼくはいなかったと考えている。もちろん金持ちはいた。でもセレブとは呼べなかった。なぜかと考えた時に、「批判から自由であること」がセレブであることの条件だと思った。
例えば、テイラー・スウィフトなどの外国のセレブは、色々な恋人と付き合ってみても、なんらバッシングを受けることはなく、むしろその自由な姿が人々の賛同を呼ぶものだったが、日本では、お金を持っていること自体が卑しく、隠さなければならないもののような扱いをうける。なので必然的に、セレブという存在は批判の対象であって、日本では成り立たなかったのだ。そうは言っても、海外のセレブには批判的な目を向ける日本人は少なかったと思うが、これは海外のセレブというのが、いわゆる日本人にとってはおとぎの国の話だったからである。

それが今回、前澤友作という意志のある強い男性と、剛力彩芽という意志のある強い女性というカップルの登場により、(一時はやはり強いバッシングを受けたが)日本にセレブと呼べるカップルが初めて登場したといえる。

セレブというのは本人が名乗ればそうなるわけではなく、圧倒的なマネーと、強い意志、そして何よりも自由奔放さ。という3つのイメージが必要となるが、日本では、なかなか自由奔放なイメージを維持できる人はおらず、この壁を打ち破ったのは初めてといえる。

ぼくは日本に初めてセレブと呼べる人たちが出てきたことを肯定的に受け止めているが、日本人の多くというのは、以前は、セレブやスーパースターに「清貧さ」を求めていたが、最近はそんなものはもう求められなくなったということなのだ。
この「清貧さ」という価値観は、もともと明らかに儒教や仏教から来ていたのだろう。バブル世代に物質的な欲求が満たされた際に、物質的な欲求より高次の心の欲求が求められた際に、一杯のかけそばのような清貧さがもてはやされた。しかしその当時日本人はそもそも豊かだったのである。つまり、物質的な欲求で自身の単純な欲求をみたし、清貧というおとぎ話によって、心の欲求を満たしていた。いわば矛盾した2つのベクトルに自分を浸からせていた。これは人間が状況を棚に上げることができる生き物だから、可能なのだ。
しかし現代人々の欲求がどんどん抽象的になっていく中で、これまでのように物質的な欲求の反対、すなわち清貧という逆のベクトルに高度な精神的な欲求を求めるというものではなく、物質的な欲求を突き進めていけばそこで精神的な欲求を満たされるという単一方向のベクトルを追い求めればいいのではないか?という疑問が湧いてくる。そしてそれを上手くやっていると大衆に思わせる象徴こそがセレブである。

これからの倫理はただただ、欲求の直線上に置かれることになるのかもしれない。