fastapple's blog

時系列関係なく、情報を追記・分割・統合などします。ブログに記載の内容のうち、引用ではなく、私自身が記載している文章・コードなどについては、自由にご利用ください。

2つの脳と同期


十分睡眠を取ったとしても、一日中起きて作業していれば、段々疲れてヘトヘトになってくる。疲れてくるとイライラしてくることがある。なんで疲れているとイライラすることがあるのだろう。

疲れが原因でイライラしている時に、割と効果的な対処法に気付いた。疲れているときに、自分の行動に対する注意を向けて、実況中継してみる。つまり歩行瞑想のようなことをしてみる。すると、疲れて自分の行動が遅くなっており、意識が苛ついているということがわかる。ちょうど重いPCの処理を待たされているときのようなイメージだ。しかし、行動に注意を向けることで段々その遅い自分の処理にも合わせられるようになってくる。自分の行動に注意を向けると、驚くほど自分の行動が普段より遅くなっていることがわかる。まさに処理落ちしている画面を見せられているように。だが、行動に意識を向けなければ、なぜ自分がイライラしているのかにも気付けないだろう。処理落ちしているのは意識とは別のものであって、意識はそれと同期が上手く取れずにイライラしてしまっているのだ。そのことに気づくだけで、疲れているときも随分とイライラを軽減できる。

意識について語るとき、多くの場合「意識」と「無意識」という分類がまず行われる。ここで重要なことは、「意識」は通常ひとりにひとつしかない。「あなたの意識はいくつありますか?」という質問に対して、多くの人は「ひとつ」と答えると思う。そして、「あなたは無意識のうちに何かミスをしたことがありますか?」という質問に対して、多くのひとは何らかの失敗例をあげるだろう。つまりひとつの意識があり、意識の他に無意識がある。というところまでは、多くの人が合意できるところだと思う。では、「あなたの無意識はいくつありますか?」という質問に対してはどうだろうか。自分の場合、この質問に対しては「わからない」という答えだ。もっと言えば、「わからないけど、別に無意識が結果的にいくつだろうと困らない」ということだろうと思う。つまり自分が完全にコントロール権を持っている実感があるのは意識だけであり、無意識はいくつあろうとコントロールできないので、無意識の数がわからないのである。正確にいえば、「少なくともひとつ以上の無意識がある」ということになるだろう。

ここで脳をコンピュータに例えて、意識や無意識をプロセスだとすれば、脳というコンピュータは、少なくとも意識と無意識というマルチプロセスで動いていることになる。この脳をコンピュータに例えたモデル化は面白いのでもう少しおし進めてみたい。

無意識のうちにやってしまった失敗というのは取り返しがつかない。というか、意識していたとしても同じだ。それは当然ながら、時間が巻き戻すことができないという性質によるものだ。ところで、「無意識のうちになにかやってしまうことがありますか?」という質問に、多くの人は「はい」と答えるだろう。もし、ヴィパッサナー瞑想など、自分の行動に注意を向ける訓練をしている人にとっては、尚更、当然のことに感じるだろう。実は無意識でほとんどすべてのことができてしまうので、「意識を介入させることができることがそもそも不思議だ」といった議論すらある。wikipedia:自由意志

意識と無意識について、以下のような時系列モデルで考えることができる。まず無意識の動きに注目する。ここで重要なのは、人間の行動に意識が介入しなくても全く構わないということだ。無意識は今の状態からfeedbackを受ける。これは、自分の行動そのものであったり、人間の入力器官(いわゆる五感)から受ける刺激がfeedbackとなり、先々の行動を決定する。自分の先の行動を決定したらそれをシーケンシャルにメモリに書き込んでいく。人間の出力器官(手足などの筋肉運動)は、これを時系列で処理していく。

意識もまた同じことをしていると考えられる。ただし、意識の方が処理する内容が大きいためか、無意識のほうが「いま」と比較して未来の処理を迅速に割り当てることができる。これを、意識のプロセスは無意識より大きいと捉えることにする。意識のプロセスは、無意識よりさらに先のメモリを書き換えていく。もし、無意識より先に意識がメモリを書き換えていたら、無意識はなんらかの仕組みでもってこれを察知し、基本的には意識が書いたメモリを書き換えない(意思を尊重する)ここまでを歩くという行為を例に図示すれば以下のようになる。

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ところで、無意識で決定できないことというのはあるのだろうか。たとえば我々は全く別のことを考えながら無意識的な意思決定ができる。これは大きなテーマで、意識がなくてもすべての意思決定が可能だと思われる。意識はあくまでも後天的に備わった機能だということもできる。

また、今回の考察ではメモリ書き換えモデルを考えたが、意識と無意識がプロセス間通信のようなことをしているモデルでも説明できる。ただそれだと無意識が意識によってコントロール可能なもののように見えるかもしれない。仮にプロセス間通信だとしても、意識と無意識は疎結合だろう。

少し話が逸れるが、岡潔の著書かなにかで修羅という表現を使っている。これは上述のモデルでは、無意識のプロセスに意識がまったく関与していない状態を修羅の状態ということができると思う。無意識だけの判断で為された(大抵は悪い)判断を、衝動的な判断と言ったりする。

衝動的な判断を抑えるにはヴィパッサナー瞑想は有効だろう。意識のリソースを無意識の暴走を抑え込むことに使う訓練になるからだ。しかし、その分意識のリソースを他のことに向けることが難しくなるだろう。実際に、マインドフルネスが創造性を下げるといった議論もある。

Googleが実践する「マインドフルネス」がいかに創造性を殺したかという記録 - GIGAZINE

なんというかこれは上記のモデルで考えると当然ともいえる結果で、単にリソースの問題と考えることができると思う。

無意識の判断の部分を鍛えるといったことはできないものだろうか。もちろん、訓練を重ねれば手続き記憶が形成されて、いつもやっているものごとについては少ないリソースでできるようになるので、その分他のことにリソースを使えるようになるのだろうが。意識・無意識、両方を鍛える方法があれば知りたいところだ。