fastapple's blog

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【書評】ヤバい経済学[増補改訂版]を読んだ


ヤバい経済学、なんだか昔ちょっと流行っていたような気がする。日本語訳の初版は2007年で、増補改訂版の前の発行が日本であったのかは知らない。映画にもなっているようだから、米国では当時結構反響があったのだろう。
原題は、Freakonomicsで、日本語版のタイトルは結構な意訳だ。(もっともこのタイトルでは意訳せざるを得ない。)本文の翻訳は結構砕けているので、ちょっとそういう文体が苦手な人には抵抗があるかもしれない。実際、ちょっとこの翻訳は砕けすぎているな。と感じることはあったが、かといってヒドい翻訳でもないので、この文体が狙っている意図からすると概ね成功しているのかもしれないが。

さて、以下は本書を読んで思ったことを殴り書きしている。以下に書いてあることが本に書いてあるとは限らないのであしからず。

・インセンティブ
行動経済学が興るまでは、人々の行動モデルは、経済的インセンティブによって決まるとしていた。このモデルでは、人々は非現実的なまでに合理的であるため、実際の人々の行動を予測するモデルとしてあまり適切ではない。ここで別のインセンティブを持ち出し、総合的に行動モデルを解き明かそうとする。まず社会的インセンティブは、要するに恥の文化と称するものがとくに日本人の行動様式を説明するものにとどまらず世界共通であることを示している。例えば、経済的インセンティブに基づいてのみ行動するヒトは、恐らく選挙にいかない。自分の一票の与える大きさの少なさがわかっているからで、ではなぜ投票にいく人がこれほどまでにいるのかという原因を説明するための一つの因子が社会的インセンティブである。どこかの国で、投票所に行かなくても投票できるようにしたところ、(投票率が増えるだろうという予測に反して)実際には、投票率が下がってしまった。これを社会的インセンティブで説明している。つまり、投票所にいく自分というのが社会的に模範的な自分であり、社会の目によって、模範的な人間かどうかがチェックされていると考えるからだ。旅の恥はかき捨てというが、これを言い換えると、旅での行動には、社会的インセンティブが相対的に少ない。といえるだろう。次に、道徳的インセンティブがある。これは、心理学用語で認知的不協和と定義されるものに近い。道徳的インセンティブは、(説明不要だろうが)自分が道徳的であることを守ろうとするインセンティブだ。ここで、興味深いのが、このインセンティブ同士はそれぞれ交換可能な場合があるということだ。本書では、保育園に子供を迎えにいくのを遅刻する親に対して、罰金を課す実験を紹介している。この実験における罰金額は大した金額ではなかった。結局、罰金を導入してから、遅刻する親の数は増えた。つまり、これまで遅刻しないことを動機づけるものが道徳的インセンティブや社会的インセンティブだけだったのに対して、これが、経済的インセンティブに置き換えられてしまった。どうやら人間は、金が絡むと、ようするに経済的インセンティブが導入されると、そこにあったはずの道徳的インセンティブや社会的インセンティブの存在を破棄してしまうらしい。つまり、人間は、経済的インセンティブと、社会的・道徳的インセンティブを一緒に計算することには慣れていないようだ。(抵抗があるのかもしれない)似たような事例として、献血がある。献血は、多くの国で社会的・道徳的インセンティブによってのみ行われている。これはデータに基づいている。献血をするのに割にあった経済的インセンティブというのは、決して小さな金額ではない。人は価値の異なる別々のインセンティブを計算するのが苦手なので、もし献血によって少しの経済的インセンティブが得られるようにしたら、それによって、道徳的・社会的インセンティブはふっとび、献血によって得られるインセンティブの総量が減るため、献血に行く人は少なくなってしまう。実際に、献血に経済的インセンティブを付与したことで、献血する人の数が減ってしまった事例を挙げている。もちろん、金額がことなれば話はちがうだろうが、ポイントは、経済的インセンティブには他のインセンティブを吹き飛ばすだけの何かがあるということだ。

・差別について
差別は2つに分けられるという。選考に基づく差別と、情報に基づく差別だ。前者は、自分の身の回りにこういう人がいてほしくないという嗜好などに基づく。後者は、いわゆる相手を見下していて、(いてほしくないわけではないが単純に)差別しているということだ。人種差別というのは、圧倒的に前者の色合いが濃く、後者の典型例は、老人に対する差別だ。隠された差別因子として、前者はヒスパニックに対する差別(アメリカでは黒人差別ほどは騒がれないため)と、後者は老人に対する差別がある。(自分が老人を差別していると、他人から思われたい人は少ないだろうが、老人への差別というのは結構見かける。老人に対してのみ、タメ口な看護師とか?)

・飛行機は車より安全?
飛行機は車より安全だとよく言われる。人は自分でコントロールできるもの(自動車事故)より、自分ではコントロール不能(航空機事故)を恐れるという。ただここで興味深いのは、実際には、時間当たりの危険度は飛行機も車も大して変わらないということだ。つまり、みんな「飛行機は意外に安全なんだ」と思っているが、「飛行機は意外に「意外に安全ではない」」といえるだろう。

・リスク=危険+恐れ
実際の危険性とは別に、恐怖を扇動するものがある。実際の危険性を「危険」。本能的な恐怖を駆り立てるものを「恐れ」と定義する。この数式の「リスク」は、実際に人々が評価するリスクのことだろう。本書では、家に銃があるよりプールがあるほうが子供にとって危ない(子供がおぼれる事故と子供が銃で遊ぶことによる事故を比較して)が、実際には、銃のほうが危険とみなされることを例にあげる。こういう、危険<恐れのときに商機があるという。例えばチャイルドシートは、こどもを前の席で膝の上に座らせないという効果のほうが、チャイルドシートそのものの効果よりよほど大きいと指摘する。が、実際チャイルドシートはバカ売れした(し、法令で義務づけられたりした)。つまり悲しいかな実際上の危険を取り除くよりも、人の恐れを取り除くほうが商材としてはよいということだ。(まあ、チャイルドシートは実際の危険も取り除くのでいいほうだ。実際の危険は取り除かないような商材だってあるわけだから。)

・中絶と犯罪の関係
筆者を有名にした論文は、中絶と犯罪の関係を明らかにしたものだったようだ。それはセンセーショナルだった。昔、中絶は法律で禁じられていたが、徐々に中絶が各州で合法化されるようになってきた。その影響で、犯罪が減ったというのだ。中絶が増えると犯罪が減るという相関がショッキングなものだったために物議を醸したらしい。実際、中絶ができないことで親から望まれずに生まれてきた子(本書では望まれない子と表現している)の起こす犯罪率は高いものだったそうだ。そういった子が中絶によって生まれてこなくなったので、犯罪は減った。当然のことのようだが、特に中絶反対派にとってはショッキングなことだったようだ。
ぼくはここで少し掘り下げて考えてみることにする。まず、因果関係と相関関係は違う。これは当然のこと。ただ、今回の件では、上記のような因果関係を想定することは割と妥当に思える。だから、例えばこの因果関係があるということにして、話を進めよう。よい因果関係とわるい因果関係というのを定義したい。例えば、瀕死の人を助けるとお金が手に入るという状況と、人を殺すとお金が手に入るという2つの状況を考える。前者をよい因果関係、後者を悪い因果関係と考える。後者は、経済的によいインセンティブを得るために、道徳的に悪いことをしないといけない。こういうことがあってほしくない。つまりよいことをするとよいことが起こってほしいし、わるいことをするとわるいことがおこってほしい。因果応報というやつだ。これを、よい因果関係と定義する。しかし、実際には、よいことをすると悪いことがおきたり、わるいことをするとよいことが起こったりすることがある。これをわるい因果関係とする。すると、中絶したのに犯罪が減るというのは、少なくとも中絶反対派の人たちにとっては、わるい因果関係ということになる。

ここから記載することに自分の中で特に結論が出ていない。わるい因果関係をなくすべきというのは、妥当なことのように思える。中絶反対派の立場をとって話を進めれば、中絶で犯罪をへらすより、望まれない子をなんとか非行に走らないようにする方法を考えるほうが建設的に思える。これは、因果関係がなくなったというよりは、因果関係の影響を打ち消す施策を打つ。ということになるか。つまり原因ではなく、現象に対応するということだ。
そうなると、因果というのは、脈々と受け継がれてきているもので、人勧万事塞翁が馬というか、バタフライ効果というか、風が吹けば桶屋が儲かるとかそういうことを考えると、遠因に対処すればするほど、「副作用」も大きくなるのではないか?ということだ。そうすると対症療法(中絶の合法化)より、対処療法(生れてきた望まれない子をなんとかする)のほうが、適切ではないかと思う。もちろん、そういう方法があるという前提で。じゃあよい因果関係は増やしてもいいのか?というとそれも難しい。因果関係が複雑になってくると、さらに難しくなってくる。だからもう、因果関係なんてなるべくないほうがいいような気すらしてくる。だから、対処療法が最上で、対症療法は2番手であり、それが遠因になるほど、3番手、4番手となっていくと考えるのが自然に思える。卑近な例だが、例えば男性が、ごはんを食べながらアダルトビデオを見ると微妙な気分になると思う。(訓練されてならない人はすごいと思うが話がまとまらないのでとりあえずそういうケースは置いておいて。)これは、因果関係を整理したいということなのかもしれない。ごはんをたべて得られる満足とアダルトビデオをみて得られる満足は別個のものなので、これを一緒にしたくない。因果関係をおかしなものにしたくないという動機があるように思える。トロッコ問題という倫理学の問題もある。何もしなければトロッコの前の5人が死ぬが、トロッコの方向を変えれば5人は助かるが1人別の人が死ぬ。さて、方向を変えるか?というもので、いろんなパターンがある。トロッコ問題で、「方向を変えない」という答えを出す人は多い(85%にのぼったとのこと)。これは「行動の原理」として説明される。ウィキペディア参照。つまり、行動によって人が助からない選択肢を選ぶことのほうがより、非道徳的だと判断される傾向にあるということだ。この行動の原理は、上記の因果関係の原則でも説明できると思う。つまり、5人を助けるというよい行動が、そのまま1人を助けないという悪い行動になっており、同じ道徳的インセンティブのなかでわるい因果関係をつくっている。ひとはわるい因果関係にかなりの抵抗感を示すといえるのではないか?

・対処より態度
選挙費用を2倍にしても得票数は1%程度しかあがらないという結果から、そういうその場での対処はあんまり役に立たないといえる。子供の教育に有意に相関がある因子と、そうでないものを比較したところ、親が子供のためになにをしたか?より、親がそもそもどういう人間か?というほうがよほど子供に与える影響が大きいらしい。平たくいえば、対処より態度ということになる。(まあもっとも、1%でもかわるのならそうしたいという選択もできるだろうが)

と、いうことで、まあいろいろなものの側面を明らかにしてみましょうというコラムの集合的な感じで結構面白く読めた。