fastapple's blog

時系列関係なく、情報を追記・分割・統合などします。ブログに記載の内容のうち、引用ではなく、私自身が記載している文章・コードなどについては、自由にご利用ください。

言葉を超えた理解というものが、あるかどうか。


結論からいうと、あると思う。以下にその理由などを書いていく。

百聞は一見にしかず。という言葉がある。これは言葉が伝えられるものには、限界があるということだ。なぜなら言葉は普通、順番に物事を説明することしかできない。だから、時系列に沿った話というのは、言葉は得意なのである。しかしながら、例えばモナリザをみて、モナリザがどういう絵なのか言葉で説明しようというのはかなり難しい。絵は2次元で存在しているからである。一方、言葉は一次元で、順番に説明していくしかない。

もし、言葉で物事を理解しようと思ったら、ものすごい忍耐力が必要である。モナリザという素晴らしい絵があったとしよう。しかし、それを見たことのない人に言葉で説明する場合、聞いている方は、最後まで聞かないと、それがどういう絵だかよくわからないのである。
例えば絵の左上から右下まで、どこがどうなっているか説明して、ようやくその絵の全容が明らかになる。全容が明らかになるまでは、黙って聞いているしかないのだ。

言葉というのは、1次元的な理解だが、2次元的、3次元的な現象も、根気をもって説明をすれば、言葉で表すことは不可能ではない。だが、理解するのは、すべてを説明をうけたその後のことなのである。その後は、すぐに理解できるようになる。

言葉というのは認識のシリアライズ(直列化)だと思う。つまり認識を1次元に変換しているわけだ。

多くの人は、モナリザを頭のなかにイメージできる。そしてそれは2次元の絵をそのままイメージできている。決して言葉で覚えているわけではない。言葉はあくまでも1次元であって、それより2次元のイメージをそのまま使うほうが便利なのである。つまり、われわれは「ものごとを理解するために」言葉を使うのだが、「ものごとを理解したとき」それは言葉を超えていると思う。