タイトルは少し語弊があるかもしれない。日本語が思考のボトルネックになっているというと、わたしが日本語に何か欠陥があると指摘しているのかと思う人もいるだろう。しかし、そういうことを主張したいわけではない。おそらく他の、英語、中国語、ロシア語、韓国語、などの自然言語でも同じだろう。自然言語が思考のボトルネックになるということはあると思う。
自然言語は、元々、意思疎通のために発達してきたという側面があると思う。だから、考え事を整理するために、自然言語を用いることは、自然の成り行きではあるのだが、自然言語が最速の思考を提供してくれているとは思えない。もし、意思疎通を行う必要性がないのなら、思考のための言語というのが、自然言語と別に存在してもいいと思う。
勿論そういった言語は、操っている人以外からしたらまったくわからない代物になるだろう。でも、同じ人間だから、もしかすると言葉で話せないだけで、意味は理解できるかもしれない。
ちょっと外れるが、思考のための言語というのもあれば、実行のための言語というのがあってもいいと思う。つまり、物事を次々に実行するための言語だ。
いま少し興味があるというか、こういうのが作れればいいなあと思っているものは、TODOを整理するための言語だ。
やることを次々に実行するためには、日本語を介すより、そういった言語をつかって、やることを整理していく方が早いんじゃないか。という気がする。
まあ、こういう妄想をしているからなかなか出来ないんだろうといえばそうかもしれないが、こういうことを考えるのが楽しいのでなかなかやめられない。