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fastapple's blog

時系列関係なく、情報を追記・分割・統合などします。ブログに記載の内容のうち、引用ではなく、私自身が記載している文章・コードなどについては、自由にご利用ください。

儀式について


twitterに書くと少し長くなりそうだったのでこっちに書く。

結婚式というと、大安を選択する。と、いうのは極めて無難な選択肢だと思う。
だが、昔知人の結婚式の日取りについて、結婚する当人がいないところで予想しあっていたんだが、私が何気なく「まあ大安にあるんだと思いますけど」というようなことを言ったところ、全力で、そんなことは関係ない。みたいに否定されて、少しむっとしたことがある。

その人はわたしより年上だったし、理系の会社の人にはそういう縁起を担ぐみたいな風潮を全く信じないような人が多いのかと思ったりした。自分も理系で同じ会社のわけだが・・。そして、案の定、結婚式は大安の日に設定されて、「おれの言ったとおりじゃないか」という気持ちになったわけだ。もちろん、そんなことわざわざ言ったりはしなかったが、自分の常識だけで判断するのは本当にやめてほしいなと思った。

別に私は、結婚式はかならず六曜などを見て、縁起を担がなければならないとかいっているわけではないが、そもそも、結婚式というのは宗教的なイベントなわけである。だから、縁起を担いでいない結婚式というのは、宗教的なイベントの皮を被った、ただのお祭りなわけである。それならそれでいいかもしれないが、結婚式自体が縁起を担いでなされるものなのに、そこに宗教的要素が全く入ってこないと考えるのがナンセンスである。本当は、無宗教なら結婚式だって葬式だってしなければいいのだ。式というのは、「儀式」のことである。

葬儀上で、いきなりこんなもの意味が無いとか言い出したら、悲しすぎて動転したのか、さもなくばテロリストである。最初から葬儀なんか出なければいいのだ。

私は割りと、イベントなどは大事にしたほうがいいと思う質だ。それは宗教というよりもっと日常的で細かな「信仰」を自分の中に確認することになるからである。「信仰」というのは「風習」とかなり近い。

例えば神様がいようがいまいが、確認できないものはいると仮定してもいないと仮定しても矛盾は起きないわけである。自分のことを無神論者であると信じている人は、平気で神様はいないと説くかもしれない。日本人同士だとまだそれでいいのかもしれないが、外国の人と話してそれでうまくいくのか疑問である。この辺の話はセンシティブで自分はできれば避けたい。おそらく、私はbuddhistであると言って、それ以上の議論を避けると思うが、それがうまくいくのかはわからない。

儀式、というと、一流のスポーツプレーヤーなどは、ゲームのプレイや日常生活において、自分なりに儀式的な動作を行っているという。そういったことから言っても、自分なりの日常生活のスタイルをある程度維持しておく。というのは重要な気がする。それがつまり風習ということだと思う。

例えば、お墓参りを例に取る。死者など信じなければ、お墓参りなどしなくてもいいというのは全くの正論だ。だが、死者を信じていようがいまいが、お墓参りという風習がある以上、それをすることで自分になんらかの決意をもたらしてくれると思う。神社の絵馬などもそうだ。絵馬をかければ大学に合格すると思って絵馬をかける人は実際のところ少ないだろう。神社に絵馬をかけるという行為はその人にとって、決意表明の儀式なわけである。そこでこんなもの役にたちませんよとか言って回るのは余計なお世話である。

ところでここからは話が完全に脱線するが、決定性公理と選択公理というのが数学ではあり、選択公理と決定性公理のどちらか一方を採用することはできても、両方を採用すると矛盾が発生するらしい。この関係が、神様がいるかいないかの議論に似ていると思う。決定性公理は、無限に終わらないようなゲームにも、かならず、先手必勝か後手必勝か引き分けか。が決まっている。とする立場である。将棋やオセロのようなゲームは有限ゲームと考えられているので、決定性公理を仮定しなくても、かならず、先手必勝か後手必勝か引き分けか。が決まっている。そういうわけであるが、オセロはまだしも、将棋が本当に有限ゲームかというのは少し怪しく思える。しかし、将棋ではコマが増えたりすることはないし、局面の数も限られているから、やはり有限ゲームであると言っていいわけである。しかし、例えば、囲碁のようなゲームはどうだろうか。理論的には、アゲハマの数には可算無限の差異がつくこともありうる。つまりゲームの展開次第によっては、ゲームは無限に終わることがない。つまり、決定性公理を仮定しなければ、このゲームは勝ち負け引き分けが決まらないということである。しかし、実際に囲碁のゲームはやっていくうちにどちらかになるだろう。どちらを直観的と思うかは人によって異なるかもしれないが、無限について、結論を出そうとする立場(決定性公理)と、結論はでないとする立場。どちらも数学的には成り立つということである。

一方で選択公理は、これもバナッハ・タルスキーのパラドックスのような面白い結果を引き出すらしい。選択公理を採用すると、1つの球を分割してうまく組み合わせることで、同じ半径の球を2つ作ることができるというものらしい。これは私は神様はいないという立場に似ていると思う。神様をいないものとすれば、神様のいない空間(無限の世界)はなんでもありの世界になるわけだ。まあそれはもっとものことのように思える。

(2014/10/18:まとまらない追記)
ところでゲームによっては、そもそも局面数が無限になるかどうかが、よくわからない。ということがあるかもしれない。前述の囲碁でもアゲハマの数に可算無限の差異がつくような展開が、あるかどうかわからないとすれば、どうだろうか。その場合、うまく考えると有限だということになる。この、うまく考えると有限というのは、非常に確率論的である。結局人がもっているアルゴリズムに左右されてしまっている。深く考えると難しそうだが、表面上から見るとつまり、転じて、数というものはすべては操作の集まり、アルゴリズムということになる。数と言うのは、その表記方法がもたらす情報量の制限によって、アルゴリズムの側面を映し出しているだけなのだ。